アメリカ留学したけどめっちゃ田舎。

留学情報総まとめ かなりぶっちゃけます 2018~

ディベートが苦手で散々なヘマをした話

授業で一番ハラハラする時ってどんな時であろうか。
私にとっては転校直後の「はい皆さん今からペア(または三人組)を組んでー」である
周りに仲良い人がいない上、元々構築されている人間関係のグループで新入りとして受け入れてくれるのは大体調子のいい奴か同い年ながら天使のような心を持った人である。
そんな心の清らかな人はどの学校に行ってもわりかし少数派であり、最悪の場合、先生が無理やり親友ペアを引き裂いてまで私の様な新参者とペアを組ませたりして機嫌が悪かったり、こっちが無駄に気を使うなりで大変緊張するイベントだと記憶している。
大学は楽だ。最初からほとんどの人が知らない者同士であり、全員が友達募集中なのだ。留学生同士なら尚更、祖国から遠く離れた辺境の地でサバイバルをする戦友を求めている。
だがうっかり忘れていた事がある。ペアを組むイベントに余計な緊張感を持たなくていいという余裕のあまり、ディスカッションやディベートが苦手な事を忘れていた。私の中ではディスカッションはいわゆる「私はこう思っていますよ発表会」であり、普段から大した事を考えていない頭では到底内容のある事を言えないのである。
私は中高生の時からディスカッション・ディベートをする機会が非常に多く、時事問題や本の主人公の心境を事細やかに論争する様な授業を受けていた。当時の同級生は我先にと一人一人手を挙げ、自分なりの解釈やら他の本との比較やらを述べていた。自分なりに考えた意見を言おうと恥ずかしげに手を挙げる事もあるのだが、特にヒートアップしたディベートになると割り込めない上、どのタイミングで手を挙げるかなどと考えている間に隣に座っている大親友に先を越されて意味のない敗北感を味わうのである。そんなこんなで気がつけば「放課後に買うインスタントラーメンは何にしようか」などというくだらない想像をするのでどれだけ中身のない発言をしていたかはお分かりであろう。すなわちロクな発言しないまま高校を卒業してアメリカに旅立ってしまった。
そんなディベートの多い高校にいたため、大学の講義を聞くだけの授業に大変憧れていた。どれだけの緊張感が吹っ飛ぶのだろうとワクワクしていたが何を隠そうそれは生徒の多い大学の話であり、片田舎のリベラルアーツなんぞディベートの温床なのであった。
英語は別に心配していないし、留学生も割と多い方なので まァ大丈夫であろうという根拠のない自信を持っていたのだが一年の時のディベートは散々であった。高校で散々ヘマをして来た事が災いし、言葉に詰まった時は必ず yeah. と言って自分のターンを強制終了するクセがついていた。
大学のディベートの内容は前回の授業の続きや宿題のリーディングなどであり、ちゃんと宿題をやっていればある程度は発言できる様になっているのだ。高校も似た様なものであったが、謎の余裕により宿題で出された記事などにディベートで使えるメモなどを用意し準備は万全だった。
いざディベートが始まると、絶対リーディングをしてないであろうクラスメートが全く関係のない発言をする上に社会問題と結びつけるのである。リーディングの内容には一切触れずにもっともらしい意見を言っているではないか。しかも次の人もその意見に便乗して思いもよらない方向に行っている。
このクラスメートたちの意見、中身はちゃんとあるのである。だがリーディングとは全く関係ない。入念に準備した私には不利な方向に動いていると察知した瞬間、一言ガツンと言おうと無意識に手が挙がってしまった。
というのは元々のリーディングの内容とこの議題が逸れたディベートを繋げようとしたまでの事である。
悲しい事に感情に任せて発言しようとした為、もちろん準備した中身は完全に忘れ、非常に適当な事を言い始めるのである。思いついた事をペラペラ喋っていればいつかまとまった意見になるかもという非常に危ないディベートの仕方だが、一人でどうでも良い事を話し続ける悲しきピエロと化すのでオススメはしない。
案の定 話している途中で自分が何を言っているのか分からなくなってきたと言う事実に気づくのだが、これは取り返しがつかなくなり始めてから気がつくので厄介なのだ。そこで最初に言った事を言い換えたりしてまとめた風に見せかけた上、ちょっと黙って 
yeah.
とショータイムは終わりだと告げるかの様に呟く。
2年生の1学期までそんな感じだったのだが、2学期になるとちょっと手法を変えてみるか、という風になる。その名も yeah 禁止法である
言う事がなくなって来たら yeah と言うのをやめ、沈黙で「終わりましたよ」と周りの人に察してもらう技を繰り出したり、謎の余裕感を前面に出して足を組み、腕を椅子の両脇に置くなり、いかにも私は緊張していませんよと演技する無駄な心理戦に挑んだり
しょうもない努力ではあるが、この様な微妙な工夫は実を結ぶ事もあるのだ。
歴史の授業中、クラスが2チームに分かれてディベートをする機会があった。相手チームの子が一人一人意見を言っていくのだが、1学期の私と同じく、トンチンカンな事を何回も言い直したりする生徒がいた。まるで自分を見ている様で同情心が湧いたのと同時に当時の私よりはまともな事を言っている気がしたが、自分以外にも緊張している人がいるんだなと安心した。
議題も自分が詳しく語れる分野だった上、新しく買ったipadに浮かれて前回の授業のノートを意気込んで書いていた自分に拍手を送りたかった。チョットいい事を言えるかもという淡い期待を持って私は挑んだ。
何を話したのかは覚えてないが、割と他のチームのアメリカ人も納得していた様に見えたので一応成長したのではないかと思う。肝心のyeahで終わったかどうかはもはやどうでも良くなっていた。情けないが内容のある事をついに言えたので、心は平安を取り戻していた。
そして現在、コロナでオンライン授業に変わった学生も多いであろう。そんなオンラインでディベートなんぞ壁に向かって熱弁している様にしか見えないのであるが、見られている実感が無いので負担は少ない。
自分の画面はどっちみち誰にも見えないのだから笑いが堪えられなくなる様な画像などを用意しておくと緊張はほぐれるであろう。
そう思いつつ来学期の検討を祈るのであった。

 

にほんブログ村 海外生活ブログ 海外留学(アメリカ・カナダ)へ

↑留学ブログ、いっぱい載ってます